昭和50年07月23日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
信心はみやすいものじゃがと、教祖様も仰っておられる。私もそう思います。問題は十年と信心が続いたら、我ながらわが心を祀れと仰せられてある。そこまでですそこまでは本気で信心させて貰わにゃいけません。いわゆる信心です。言うなら信ずる心です。信ずる心が十年その亊に取り組んで、おかげを頂いて参りましたら、誰でも我とわが心が拝めれる、わが心を祀れるおかげが頂けるのですけれども、信心を目指さない言うならおかげばかりを目指す、もう一生信心しとったっちゃ同じです。
わが心を祀れとそれじゃけっきょく、信心は難しいものと言う事になるのです。それでも誰でもじゃ出来ん、信心は難しか。毎日毎日お参りをしよる。お金もずいぶんお供えせんならん。そんならもう難しいです。それでは結局わが心がまつられると言うておられる、信心を目指さないから。私共が本気で信心を目指さして貰うならばです、もう誰だって十年も経つならば、我ながらわが心が祀れる。我ながらわが心が拝みたいほどの状態にならなければうそなんです。
だから如何に信心はしとりますけれども、本当の信心を頂いてないか、おかげだけを頂いておるかと言う事が解るんです。だから私がいつも申します様に、自動車の運転は難しいでしょうねと、たとえば運転の出来る運転免許をもらった人に言うたら、いいえそんな難しい亊ないですよ、きやすかですよと言うのと同じ亊です。運転免許を取るまでが難しいのであって、運転免許を取ったらそんなに、あゝ一寸自動車の運転は難しいと言う者はおらんでしょうもん。
それこそ自動車が自分の体のごと、手足のごと自由自在に動く。だから信心も言うならば、信心の免許皆伝と言う所まで行かにゃいかんです。その免許皆伝と言うのが十年たったら、わが心が祀れるようなおかげを頂かにゃいけんと言う事になるです。それもどうぞこげんして下さいあげんして下さい、それは教祖様が仰るからね。牛馬の事に至まで実意をもって、もう人間人事百般何なりとも願えと仰る。けれども信心で願えと仰ってる。いわゆる実意をもって願えと仰っとられるでしょうもん。実意も何もないだ只頼む事願う事これでは、いや一生信心をさせて頂いておってもうだつは上がらんです。
いわゆる信心ちゃ難しいものと言う事になるのです。最後にその日その日のおかげを受けて行けば立ち行こうがと仰る。例えば十八日の月次祭、そして今日が二十三日のまた月次祭。月次祭から月次祭までの事を、合楽で行われておる事を皆さん思うて見て下さい。十八日が月次祭十九日から北九州幹部の信心実習会が、合楽で百二十何名の人が此処に一晩泊まりで泊まり込んで、信心の研修をされましたね。成程ご信者それぞれの持ち場立場で、一生懸命御用をなさいました。
そして十九日の夜八時六分に、母がお国替えを致しました。昨日も告別式にここの筑水連合会の会長であります、幡麿さんが丁度告別式が終りまして、原口久人さんですかね、県会議員のあちらも会葬頂いておりました。そしてたまたま私の方のいとこが、大変心易う願っとると言うので引止めとったものですから、客殿で幡麿さんも一緒に帰ると言うので残っとられました。それで後の御直会ども差し上げて、ゆっくりして帰られた訳ですけれども、幡麿さんが言っておられました。
今度の十九日二十日にかけての、信心実修会に今迄かってないおかげを頂いた。とやこう色々言うけれども、合楽の素晴らしささを泊まり込みで見て行った者が、皆んながそれを言って帰りました。同時に本当に合楽の信心を頂いて帰りました。同時にです私共は何も知らずに、信心実修だけに打ち込んでおりましたが、こちらではその夜お婆ちゃまが亡くなられたと言う事を聞いて、後でいよいよびっくり致しました。こちらの親先生はその晩も矢張りお話しを頂いた。
翌る朝もご祈念を当たり前に仕えて、皆に御理解下さった。午前中の研修に、やっぱり何事もなかった様にして最後のお話しを頂いた。そして十二時に終わってお礼のご祈念をさして頂いて、初めて親先生が、昨夜実は母がこうこうでしたと言う発表を聞いて、皆がビックリしたんです。大体あの様に親を亡くしてから、あんなにしておれるだろうかと言う事だったらしいです。
私はそれをこちらは何でもない、当たり前の事に思うておる事が、皆さんにはその様に響いておるです。その事を本当に芯から客殿で言うておられましたら、示現活動の示現と言う事を頂いたです。ははぁ十九日の夜に母が亡くなったのは、そういう沢山な百何十人の人達に、示現活動をすることの為であった。本当金光様の信心とはこういうものだぞと言う事を、もう私の話しだけではない、実際私が毎日おかげを頂いておるその中には、それこそ嬉しい事楽しい事、悲しい事様々ある事である。
降る事も照る事も、吹く事もあるけれども、それがずうっとが有難い物として頂けておる事実をね、目の当たりに見て聞いて帰ったと言う事が、百二十名の者がこれが皆知るでしょう今度。例えば一時の信行を終ってからでしたから、それを頂かずに帰った人達でもです必ず後から聞くでしょう。あの日は合楽ではこげんじゃったげなと。してみると母は亡くなるが亡くなるまで、合楽示現活動に参画しておったと言う事が言えるです。もう客殿でしきりに幡麿さんがその事を言われる時に、示現と言う事を頂いたです。
神様が不思議な不思議な働きを、示し現して下さる事だと言う訳なんです。もうそれだけじゃありませんでした。そういう大変な会合があっておるのにも拘らず、こちらでそういう不幸があっておったのに、誰もそれを感知しなかった、知らなかったと言う事です。そして翌日が密葬でございました。火葬祭そして昨日の告別式。十八日十九日二十日二十一日二十二日の告別式に、毎日言うならば降ったり照ったり、吹いたりと言う亊が行われとりますけども、その日その日が立行けばと言う亊は。
結局我とわが心が拝めれる様にならなければ、そんなおかげは受けられんと言う亊です。自分で自分の心が拝まにゃおられない程しの物をです。これに頂かして貰う時に、もう天地がそれこそあれと是とが一緒になって、こんがらがったと言う亊が全然ない。その日その日が立行くのです。私は夕べ皆を送り出してからここへ参りましたら、もうちゃんと御結界はここに移っておる。
あれだけの大変な告別式の、この舞台装置だけでもですよ、あれだけ大変な亊じゃったか、ここで今日さっき告別式があっただろうかと言う様な状態でした。あれだけ沢山の花輪やら生花やら、どこに陰さえなかった。私はそこで二、三人ご祈念している人達に申しました。合楽の素晴らしい事はこれだと私は申しました。その日その日がまぁだ昨日の残りがこげんあっとると言う亊では全然ない。
そして夕べは田主丸の二十二日の共励会ですから、若先生外先生方もみんな共励会に行っておかげを頂いとります。もうどこに高い所から低い所へ水が流れる様に、いやここには大きな岩があったり引っ掛ける所があるけれども、そこをよけて水は流れて行く様に、もう実にスムーズな亊です。その日その日が立ち行けば楽じゃと。どうぞ皆さんどうでも、そういうおかげを頂かにゃいけんです。それにはね十年と信心が続いたら、我ながらわが心を祀れと仰る。これはもう誰でだって祀れるごつなるです。
ほんならここに運転の免許を取ろうという人、この人は取れまいこの人はとても取れまいという人は誰もおらんです。皆取れる人ばっかりです取ろうと思うたら。その為には少しは勉強もしなきゃならん、実地にもやっぱり体験しなければなりません。お話を聞いてわからなきゃいけません。やっぱり勉強が要るです。そしてそれを実祭の生活に現わして行かにゃいけんです実地にです。
そして十年たったら信心の言うなら免許皆伝を受けた所からです。我ながらわが心が祀れる様な、有難い日々が出来る。ほんなら有難い日々と言う亊の中にはです、十八日の月次祭から、今日二十三日の月次祭までの亊を、私が皆さんに聞いて頂いたが、それこそ雨じゃろか嵐じゃろかという位な亊も、中にあっとるけれどもその嵐が過ぎ去った後には、カラッとしたものでしょうか。
成程私は改めて今日は、信心は見易いものじゃがと氏子から難しゅうする。拝んでお願いをしておかげを頂かんならん。只そこだけに焦点を置くから難しいのです。そしてお願いしたばってんおかげ頂ききらじゃった。これでね信心しとると言う亊じゃないですこれは。願う亊はよしけれども牛馬の亊に至るまで願う亊はよし願えと仰る。けれども実意をもって願えという亊は、信心持って願えと言う亊なんです。又はその願わなければならない事柄なら事柄を通して、一段と信心を進めて行けと言う亊なんです。
十年経っとるけれどもまぁだ自分の心は拝めんという人は、如何に信心のけいこに本気になって居ないかと言う亊を、一つ思わせて頂いて、その日その日の立ち行くと言う事。言うなら有り難い尊いその日暮らし、今日はとうとう食べちゃった。今日はどこから借金取りに来たばってんとうとう払えじゃった。そげな亊があって良かろう筈がないです。なるほど米櫃には米はないかも知れません。
けれども食べねばならん時に、ちゃんと与えて下さるのが神様です。私共は随分難儀して参りましたけれどもです、一日でも食べなかったと言う亊はないです。もう先生今日は何にも食べる物がありませんよと。今晩頂く物は何にもありませんよと。さぁ今夜は今夜。神様に今日まで頂けた亊のお礼を申し上げて、明日は明日ぞと私は言うて休みました。翌くる日には必ずこれはもう絶対でした。
それこそお粥さんでも神様は必ずすすらせて下さったです。だからそこにもし滞りがあるなら、信心の方へ滞りがあっとる時です。済みませんばってん、明日取りに来て下さいと言うて、集金を断った亊はないです。何百万払わなきゃならん、経理をしている久富さんがいつも言われるです。親先生明日だけはこんくらいしかありませんち。明日何百万払わんならん。なら神様にお願いしとかにゃ。
ぁご自分でお初穂の整理をされる。先生丁度おかげを頂いとりましたよち。これは皆さんが合楽の事御承知の通りです。そういう滞りがあってよかろう筈がないです。この頃沖先生が言っておられます様に、本来人間というものは絶対幸せにならにゃならんごと出来とると。それに金が足らんの病気しとるの、人間関係で悩みがあるの、苦しみがあるのと言うのは、如何にあなたが罰被っておるかと言う事が解るです。
罰被っとると言うと言葉が悪いですけどもね。如何に幸せになってくれよと言うて、神様が痛い思いをさせてからでも、分からせ様となさっておられると言う事を解らにゃいかんです。だから信心は見易いものじゃがと仰る。信心が見易うなる所まで本気で信心させて貰うと、後は嬉しゅうて楽しゅうてと言う亊ばかりです。朝起きする亊も有難い楽しい。どんどんお供えが出来るという亊も。それこそお役に立たせて頂く亊が有難うして応えん。難しい亊じゃ決してないです。
それは運転免許を取らせて頂いたら、自動車をあつかう亊が見易い、難しいもんではない様ななものです。お互いが様々な難儀を持っとります。そこにですそういう難儀を感じなければならないもといは、向こうにあるのじゃないこちらにあるとしてです、そこを詫びるところは詫び、改まるところは改まって、おかげを頂いて行かなきゃなりません。その日その日が立ち行くと言う亊は、あそこに借りに行かにゃん。ここに貰いに行かにゃんと言う亊では決してないです。
その日その日が例えばその日暮らしであってもキチッと出来るごとなっとるとです。それが出来ん所にお互いの信心が、まだ欠けておる所足りない所を悟らせて頂いて、そこをおかげを頂いて行って運転免許が取れた様に、我ながらわが心が信心によって祀られ、拝めれる様な状態を目指させて頂く時にです、難しい亊じゃない信心は見易いだけではない、その日その日が有難く立行く事実を、私は今日は十八日から二十三日の、今日の月次祭迄の日々の亊を聞いて頂いた訳です。
どうぞ。